霊術と気功を伝統と科学で学ぶブログ

Sun-Light Yellow Arts :あともう一つの解決方法をあなたに

お守りについて色々と

ほんじつはおめでとうございます。The Kerria Sasaと申しましす。

 

本稿では、お守りについて述べていきます。

お守りそのもののあらましというよりも、お守りを自作する上で大事なことをいくつか紹介していきます。

 

その内容的には日本風(?)の・・・です。西洋のお守り(タリスマンやアミュレット)のような物ではなく、紙に書くタイプです。

 

 

お守りとは?

とはいえ、お守りとは何か?ということも少し触れていきます。

一般的には(とはいえかなりマニアックにまとめてくださってますが・・・)

ja.wikipedia.org

となっているようです。

 

上記リンクにはあまり言及されていませんが、身につけていることで魔除けや幸運を呼び込む(?)ものと言うことができるでしょう。

 

本稿で主に述べるのは、お札と呼ばれる部類になるかと思います。

 

そしてIKTM流(私が修行してきたヒーリングメソッド:I had received the Knowledge and Trained healing Method.)ではその身につけたお守りから神気が出て人を包み、その影響を与えるとされていました。

 

ですのでお守りには、何らかの気(この出どころが神様か人かによらず)が込められているものと言えるでしょう。

 

そして基本的にはその込められた気が放出されることで、そのお守りの気が減っていき、いずれは気が枯渇し効果がなくなるとされています。

 

 

お守りは誰が作るのか?

お守りは誰でも作れます。本屋さんにはその手の本が並んでますし、インターネットで調べればいくらでも出てきます。ただし「お守りの作り方」で調べるとお守りを入れる袋の作り方ばかりになるようなので、「護符の書き方」などとするとかなりマニアアックな解説に行き着きます。

 

かなり厳密なお作法が書かれているものもありますが、それはお守りにいかにして大量にそして目的に合致した気を入れるのか?を考えた末のお作法と言えます。ですのでそのお守りを作る宗教的文化的バックグラウンドによって、そのお作法が変わっていくのです。

 

しかし重要なのは、先にも述べたように、お守り(護符でも)に気を込める必要があるのです。いかに気を入れるか? そして効果がある気を放出させるか? さえできれば良い分けです。あとはそのための手法や工夫な分けです。

 

言い方を変えると、思いを込めることができれば良いことになります。(思いを込めると、気が篭ります。)

 

お守りを作る人が気功技術や法力、霊術などそのための能力を有している場合は、それを使えば良いです。認知科学式の気功では”封入”ですし、IKTM流では”魂入れ”と呼ばれる技術がそれにあたります。

しかしそのような能力(?)を持っていない人は、自作するお守りに「願いを書く」ことでその思いを多少なりとも込めることが出来ます。(”封入”や”魂入れ”に対比して”書く”と記しましたが、封入などのお作法については過去記事をご参照ください・・・。後ほどリンクを貼っておきます。)

 

また作るのが面倒だったり、気を込める自信がない方は、先述のお守りを作れる人(封入ができる人など)に、カスタマイズされたピンポイントの自分の願いが込められた物を作ってもらってもいいかもしれません。(家内安全とか交通安全などありきたりなものを神社に売ってますので!)

 

 

気をつけること

お守り作りを紹介する前に、お守りを持つ上で気をつけることを紹介しておきます。

何も特別ではなく、皆さん一度は聞いたことがあることだと思います。

 

それは ”中を見られてはいけない” ということです。

 

中に何かが刻まれたものが入っている場合は、刻まれてあることを見られてはいけないのです。

 

この刻まれている(ある)ことは、その持ち主の願いが書かれている場合と、神聖なサイン(梵字神代文字や特殊な記号など)である場合があります。いずれも見られてはいけないとされています。

(特殊な記号で有名なのは、五芒星などでしょうか?)

ja.wikipedia.org

 

持ち主の願いとはそのお守りが成そうとしている目的ですね。この場合は、持ち主と作り主以外の人にその内容を見られてはいけないと言うことです。見られてはいけないとは、内容(願い)を第三者に読まれてはいけないということです。

 

その願いが一般的(交通安全とか)なら良いのですが、実際の作成してもらうカスタマイズされたお守りはもっと泥臭い人間の願いが書かれます。(人は聖人君主では無いですからね) その願いがバレてしまうのが恥ずかしいだけでなく、邪魔をしてくる人もいるからです。その人が良かれと思っていてもです。(この辺は、よく”ドリームキラー”と呼ばれてますね。あ、一般出来はないかもですが)

 

また神聖なサインの場合は、持ち主もその記述内容を見てはいけないとされています。持ち主は中に書いてある意図はわかっているはずですので見る必要はありません。見て良いのは作成者だけです。(持ち主が作成者の場合はOKです。もちろん。)

 

神聖なサインにはそれ自体に力(この場合は気が込められそれを発すると言うこと)があるとれており、その効力を維持するために見ないことの”縛り”が必要とされています。



この”縛り”の解釈はいくつかありますが、サインを見てしまうことで、神聖さを失ってしまうためと解釈できます。神聖さが保たれているお守りは、持ち主の意識に「特別なお守りを持っている」があるという利点があります。この特別感はお守りを持つひとの行動を現実的に変えていくはずです。(お守りに力があろうとなかろうと・・・・あれ?何かヤバいことを言ったような・・・)

 

 

IKTM流お守りの作り方

ここからは古神道系のIKTM流のお守りのお作法です。このお作法または縛りによりお守りの効果を増加させるのです。

  • 和紙に願いを書く。包むのも和紙。
  • 筆を使う(筆ペンでもOK)
  • 縦書き(日本語)
  • 大量生産はしない

とりあえずこれが最低限のお作法です。

 

さらに付け加えるならば(技術を持っている人は)

  • 使う道具は新品のものを使用し、使う前に浄化(これも認知科学式気功の浄化でもOK)をする
  • 技術を持つ人は、願いを書いた和紙に、願いの内容の気を込める(認知科学式気功の封入でもOK)

となるでしょう。

 

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また、第三者に見られてはいけない、又は見ることで効力が失われる恐れがある場合は、暗号で書く方法もあります。神社で伝わるような神代文字で書くのも良いでしょう。

ja.wikipedia.org

 

もう一つの内容を秘匿する方法として、墨ではなく水で文字で書く方法もあります。暗号と合わせても良いです。この場合何も書いていないように見えるかもしれませんが、”込められて”います。

 

 

お守りの期限とその処理

お守りには効果が持続する期間があります。期限があります。

 

作成する人の思いの強さや、封入や魂入れの技術レベルにもよりますが、数週間から数ヶ月といったところでしょう。長くても1年です。

 

追加で気を込めて延命する方法もありますが、それよりは新しく作った方が良いです。願いも微妙に変化しているかもしれませんし。アップデートするのです。

 

そしてお役目が終わったお守りは、多少面倒ですが、自分で燃やしてその灰を土星の日(九星での)に敷地内の東にある木の下に埋める方法があります。(私が初め自分でやった時、ガラスの灰皿で燃やしたのですが、その灰皿が熱で割れてしまったことがあります。また火事などにならないように気をつけて行ってくださいね。)

 

しかし非常にめんどくさくもあるので、以前本ブログでも紹介した川流しが一番良い処理の仕方です。ですが、如何せん不法投棄になるので大きな声ではお勧めできません。

 

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まぁどちらもやりたくないと言う方は、神社などのお焚き上げで処分するのが良いでしょう。

 

 

お守りをもつことの解釈

お守りを持つことで、お守りから発する気を受けます。その作用で不幸を避け、幸運を呼び込み、願望を叶える(かもしれない)ということを書いてきました。(つもりです。)

 

これはこれで良いのですが、どうしてもスピリチュアル又はオカルティックな文脈を避けることができません。それが好きな方は良いのですが。。。。

「お守りは迷信であり、その購入はお金の無駄である。」と主張する方もいます。

 

そこで以下のように考えてみるもの良いかと思います。

 

本稿の”気をつけること”項の最後でもついつい先走って書いてしまっていますが、お守りを持つことで、その人の意識に又はその意識の片隅に”お守りを持っている”ことが植え付けられます。

 

本来の自分の望み・願望・目標がいつも意識にある状態が、お守りを持つことによりキープできまます。さらにお守りの持つ神秘性や不思議な力がある(かもしれないでも可)と思うことで、望み、願望、目標に対する期待値が上がります。

 

特に日本人は無宗教であると言いながらも、生活のごく近くに神社仏閣があり、良くも悪くも神様(仏様)を感じているはずです。この環境もお守りの働きを助けます。

 

二つの作用により意識に刻みつけられることで、その人の行動が変わっていきます。

行動が変わると、結果がついてきます。望む未来がやってくるのです。

 

 

とは言え・・・

本質的には自分が変わることでしか未来は変わらないと言えます。(まぁ異論はあるかもですが。)

 

しかし、この業界(?)にいると、その人(お守りを持つ人)の目に見える行動は一切変わらない状態で、突然願望が達成したりします。

 

これは、目には見えないがその人の気持ち・無意識(内部表現!)は変わっており、ごくごく微妙な変化がドミノを倒すように、結果へ向けて何らかの作用をしたと推測されます。

 

推測されますが・・・・。まぁ、そうなのでしょうが・・・・・。

それだけでは説明ができないような事例もあったりします。

 

例えば突然思いもよらない経路から幸運がくる場合です。お守りを持つ前に応募した懸賞や宝くじなどで収入が入ったりするような場合や、本稿では述べてきませんでしたが、お守りを持つ人がそのお守りの存在を知らない場合です。この場合はお守りの目的の意識付けや神聖さのブーストがありません。

 

偶然で片付けることもできますが・・・・。

 

極極個人的には、お守りが持つ”何か”が”何処か”に作用していると思うのです。

 

この”何か”は、気・情報・神気・意志意図であり、”何処か”は、無意識・内部表現・縁起・一魂七魄・関与する霊であります。

(すみません。ここでまた新しいワードが出てきてしまった・・・)

 

まだまだ書かなければいけないことがありますが、本日はここまでといたします。

気の種類とは

ほんじつはおめでとうございます。The Kerria Sasaと申します。

本稿では、”気の種類”について述べてみたいと思います。

 

主に、気功で使用する部類の”気の種類”についてになるでしょう。

巷にはあふれるほどの気功の流派が存在します。その中には気功を行う際に、様々な気の種類があるという流派と、一つの気でOKという流派があります。

 

また様々な気を使い分ける流派と、そうでない流派があります。

どちらが正しいまたは理にかなっているのでしょうか?

 

気の種類

気の種類とは何か?についてまずはその分け方を考察してみましょう。

 

例えば単純に良い気、悪い気と分類することもあります。気功業界では悪い気をよく”邪気”といいます。逆に良い気は流派によって様々のようです。”プラスの気”、”精気”などがあります。

 

このような”良い””悪い”の種類わけ以外にも、”先天の気”と呼ばれる本来人間が生まれたときに備わっている根本的な生命をドライブする気と”後天の気”と呼ばれる食物や呼吸で得ることで動作や思考をドライブする気の分け方、また”医療系に関連する気”と”武術系に関連する気”などの分け方など、様々になります。

 

さらにグッと細かい例を出すと、人体の部位ごとに効果がある気もその種類であると言えます。例えば骨、血液、筋肉などそれぞれに医療的効果がある気があります。さらに心の疾患や悲しみ怒りなどの感情の除去に効果があるものなどもあります。このような種類の分け方は医療系の気功流派の一部に存在します。

 

このように、どのレベルで種類分けするかによって異なりますが、気の種類があるわけです。

 

機能を果たす気

前述したように、気には種類があると言うことができます。

 

様々な分け方がありますが、それら全てが”機能ごとに気”で種類分けしていると言えます。

 

気の種類は気の機能を細分化して表していることとほぼ同義と考えられます。

 

分かりやすいのは、骨の治癒に効果がある気、血液に効果がある気、心疾患に有効な気などでしょう。これらはその気の存在目的が明確で、機能を果たすために存在します。

 

また多少抽象的な気の種類分けをした場合でも、その中に機能を持っていることがわかあります。

 

例えば”武術の気”の場合その中に、打たれ強くなる気(中国気功では硬気功と呼ばれることが多いですね)や、相手の動きを察知し先読みに近い洞察力である聴勁のための気、などが存在しています。武術の練度を向上するための(昔であれば戦闘の際に生き残るための)様々な気が内在していると言えます。

根源の気

では、”根源の気”と呼ばれるような、気功の気には種類はなく一つの根源の気があれば良いのだとする流派の場合です。

この根源の気とはとある気功流派の呼び方です。しかし同じような概念を持つ流派は多くあるようです。

 

このような気の疑念を持つ気功の流派は、気を人体に送る際に、病気に対しても精神に対しても、特に区別することなく送るとされています。

 

その流派の中の人が言うには、全ての元となる気なのでわざわざ種類わけをする必要はないとされます。または至高の気なので全て含んでいるのである・・・と。このような考え方は少し前の気功やヒーリングに多い気がしますね。

 

しかしよくよく考えると、その”根源の気”と言われるものに、一定の機能を期待していることがわかります。例えば胃の痛みを治すために胃に”根源の気”を送るとします。

 

この場合、全く何も考えずに胃の場所に送るのではなく、胃の痛みを収めると言う意識があります。すなわち胃の痛みの除去と言う機能を持たせていることと同義です。

 

このように根源の気があったとしても、それを人が何かに送るときには必ずその意図が入ります。そしてそこに機能が生まれてい行きます。

 

機能を持った気を扱う以上、それは(これまで述べてきたように)気の種類はあると言うことになります。

 

邪気はどう考える?

もう一つの問題として最初に挙げた、良い気・悪い気(邪気)についてがあります。

 

一般的に邪気と言えば、人に害を与える気の総称として使われます。特に体の不調に関与していると言われます。肉体的な病気になるときもそうですし、精神病もそうです。

 

また自己の能力が妨げられる場合もそうですし、(少しスピリチュアルですが)運が悪い場合などもその影響を受けているとされています。

 

人にとって(色々と)悪い作用をする(機能を持つ)気のことを邪気と分類している分けです。

 

ここで問題は、この邪気とは誰にとって”悪い気”なのかと言うことこです。

 

良い悪いも極めて相対的であり、だれにとって?はが重要になります。

対象すなわちその気の影響を受ける物(生物無生物問わず)にとってどうなのか?といった視点を持つことになります。

 

気は情報

気はその機能により分類され種類がある(できる)ことを述べてきました。

 

ではなぜ気には様々な機能があり得るのか?と言う問題があります。

 

元々そのよう機能を持った気が太古の昔からあったと考えることもできるかもしれません。

しかしそれでは最近の気功・ヒーリングで生み出され続ける新たな機能を持った気は説明できません。

 

ここで気の本質の一つである、”気は情報である”ことでこの疑問に答えることが出来ます。気は情報または情報の一形態と定義されます。これまでも本ブログ内で、気は情報であると説明してきました。

 

thekerrias.hatenablog.com

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”気は情報”であれば、その情報の内容によって気の種類が変わっていくのは理解できるでしょう。そして気が持つ機能は、その情報の内容によるものなのです。

 

ちょっと特殊なIKTM流の”気の世界観”

IKTM流(私が修行してきたヒーリングメソッド:I had received the Knowledge and Trained healing Method.)では気の元となるものがあるとされています。これまで述べてきた機能を持った気を生み出す元の存在です。この”元”は古神道の神々とつながった存在であり、この世の全てのもの(実在するもの、あるいは存在するもの)に関連しています。

 

これは絶え間なく降り注ぐ超微粒子(量子的には粒子と言う表現が正しくはないですが)であり、現在発見されている素粒子ニュートリノ等よりもさらに小さいものと予測しています。(現在証明しようがないのでこのような表現になります・・・。)

 

これが物質の中に入ることで、その物質(生物無生物とわず)の意思により、気となって外部に発せられるとしています。この時その発する物(生物無生物とわず)の意志により機能が付加されていきます。

 

以前述べたように、IKTM流の世界観は、全てのものには生命がやどり意志があると言うアニミズムの世界観ですので、このような表現になりますね。

ja.wikipedia.org

いずれにせよ、気は意志が生み出したものであると言う考え方ですね。

これまで述べてきた、”気が機能を持つ”や”気は情報”と言う考え方と奇しくも合致します。

 

ほんじつはここまで

気の種類は機能で分類できて、その正体は情報であることを述べてみました。

IKTM流の古神道的な考え方にも地続きであります。

 

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先祖とお墓と現世利益

ほんじつはおめでとうございます。The Kerria Sasaと申します。

本稿では先祖とお墓について述べていきます。

 

内容としては、先祖やお墓をケアすることで、現世の利益を目指すことについて・・・ですね。

ここで言うケアとは物理的に掃除をするとこではなく(それもよいのですが)、あくまで”気”的に(又は霊的に)ケアをすると言う意味です。

 

お墓

IKTM流(私が修行してきたヒーリングメソッド:I had received the Knowledge and Trained healing Method.)ではお墓は門であるとしています。または窓のようなものです。

先祖のお墓に手を合わせるわけですが、その墓石に手を合わせているわけではありません。墓石に先祖の魂や霊的なものが入っているわけではないのです。

 

そのお墓を門として、あの世の先祖たちと繋がるためのものとされています。先祖のことを想うだけであればお墓は不要のはずですが、実際のものがあり対象を作ることで、より先祖へ想いを届けやすくなります。

 

お墓をといえば沖縄です。沖縄のお墓は独特です。そしてお墓を大事にしていることがわかります。

hakken-japan.com

いずれにしてもお墓を通して、先祖(の霊)へアクセスしているわけです。

では、なぜ私たちは先祖にアクセスしようとするのか?です。

 

純粋に先祖のため? 先祖の鎮魂を願って?

もちろんそう言う気持ちも少なからずあるでしょう。

しかし・・・・

何かしらのお願いをしていませんか? 自分の決意を表明していませんか?

下記WIKIには、”先祖から何らかのものを貰えるという信仰”とあります。

ja.wikipedia.org

 

神様と先祖の違い

お墓に、先祖にお願いをするのと、神様(?)にお願いする場合と何が違うのでしょう?

神社の神様に祈るように、ご先祖様にも「家族の健康を守ってください」「病気を治してください」「試験に合格させてください」と思っている人も多いのではないでしょうか?

 

しかし神社の神様に祈る場合とお墓(先祖)に祈る場合では、微妙に言葉が違くなる感じがします。

健康をお願いする場合、神社では「健康でありますように」などで、お墓(先祖)の場合は「健康を守ってください」となるのではないでしょうか?(もちろんその人の思想信条宗教でことなりますが)

 

先祖は神様より身近な感じがして、頼みやすい感じでしょう。写真や家系図や実際に聞いたことなどがあり、親近感があります。もちろん血のつながりを感じることでより一層そう想うことでしょう。

 

先祖は親戚であり、祖父母につながるルーツです。そんな方達に無邪気にお願いをしていると考えてもいいでしょう。子供の頃おじいちゃんおばあちゃんにお願いしていたように・・・・。

 

逆に神様は遠い存在でいくばくかの畏怖もあり、その感覚がお願いの仕方の違いになっているのでしょう。(ここでの神様の定義が非常に曖昧ですが、ここでは神道に近い日本的な・・・と思っていだければと思います。)

 

なぜお墓・先祖が現世利益となるか?

では親近感がある先祖にお願い=現世利益を自分に持ってこれるのか?と言うことになります。

(神様へのお願いのお作法はまた別途・・・。)

 

ここで重要なファクター・考え方があります。

”隠宅風水”と先祖と自分の”縁と関与”です。

 

陰宅風水

陰宅とはお墓のことです。

ja.wikipedia.org

(初めて陰宅風水を知ったのは高藤聡一郎氏の風水の本でした。発売日に購入した日が懐かしい・・・)

 

風水として、良い気の場所(龍穴など)にお墓を建てることで、お墓=祖先に良い気を届けるのです。

 

良い気をお墓にあてがう → お墓の気の状態が良くなる → 門を通して良い気が届き → 先祖が良くなる → そしてそれに連なる子孫たる我々も良くなっていくと言う論法です。

(色々簡略化した結果を記してますので、他流派の方は異論があるかもですがご容赦を。)

 

この考えからすると、お墓を物理的に掃除などを欠かさず綺麗にしても、決して悪くないですね。ただし日本にはお墓=死=穢れと連想されるため、一般的にはお墓にはポジティブなイメージがないかもしれません。

 

縁と関与

先祖に良い気を届けると、なぜ子孫の我々に利益がくるのでしょうか?

 

簡単に言うと、先祖と子孫はつながる縁があるからです。

 

我々一人ひとりは縁があることで存在しています。様々な有形無形の繋がりがあり、自分は自分として形作られ、自分を自分と認識しています。

 

またこの縁はそれぞれが物理的、気的、スピリチュアル的(?)に関与することを表しています。縁と関与は時間と場所の制限を受けません。過去にも未来にもつながるものです。

 

先祖の中でも縁の深い人もいれば、そうでもない人もいます。自分が知らないだけで実は自分が存在するためには重要な縁を持っている人もいるかも知れません。

 

この先祖に繋がる縁があるため、その縁(繋がり、関与)を辿って、お墓の良い気が先祖に届きます。

その関与深い縁を持つ先祖に気を届け、その先祖の状態が良くなればよいのです。

 

この一連の気を届ける行為の解釈は、ドライに(?)縁の修復ととっても良いですし、先祖に施しを行いその見返りを得ると思っても良いでしょう。先祖が意識を持っているなら、気を受けて状態が良くなったら決して悪い気はしないでしょう?

 

先祖の存在

これまで当たり前のように、”先祖に気を送る”と書きました。

 

先祖は実際に存在したはずですが(貴方が生きていると言うことはそう言うこと)、基本的に亡くなっている方がほとんどのはずです。生きている祖父母(もちろん先祖です)に気を送るならわかりますが、いない人に気をお送るとはどう言うことか?となります。

 

ここでこの曖昧な”先祖”をある程度私流に定義して起きます。

 

一つの考え方として、”情報的に存在する”と考えると良いでしょう。情報ですので、あなたの脳と心中にあるはずです。たとえ表層の記憶がなくても必ずその情報は存在するはずです。

 

もう一つの考え方として(これはIKTM流の考え方ですが)、先祖霊として存在すると言うものです。先祖霊という考え方は、日本では非常に一般的です。憑依霊などと言われる一般的に(?)心霊現象(?)を起こすような霊とは異なり、ある程度肯定的に受け入れられている概念かと思います。いずれにせよIKTM流では、その先祖霊をそれぞれ一人の”人”として考えるていくのです。

 

お墓・先祖に気を送る

お墓に手を合わせることで、多少は先ほどのルートで先祖に気を送っていることになりますが、もっと積極的に大量に気を送りたいわけです。またその送る気もその先祖にとって良いもの(状態をよくするもの又は喜ぶもの)でなくてはいけません。現世利益が欲しいので。

 

方法論としての方向性はこれまでの説明から二つになります。一つの方法はお墓の気を良くすること、もう一つの方法は先祖に直接気を送ることになります。いずれも先祖に良い気を送ることです。

 

簡単に紹介していきます。

 

お墓の気の場を整える

これはお墓を良い気で覆うイメージです。

 

風水ではよい気が出る土地にお墓を移動したり、お墓自体の作りを変えたりするのですが、なかなかそれもできないので、そのもう一つの手段として実施します。(本来の風水では山の連なりや形、その他の地形などから良い気の流れ(龍脈)を割り出したりします。)

 

風水的に良い気をお墓に、気功的に(情報操作的に)持ってくればよいのです。(言うのは簡単ですが・・・)

 

この風水的に良い気とは、龍穴や龍脈とよばれるものです。世の中の様々な気功、霊術ではその気(または類する気)をとらえ(臨場感を持ち)活用する技術があります。

(この辺は巷にあふれるインテリア風水とは一味違うところではります。)

 

先祖に気を送る

これは先祖を呼び出し(または気の玉の形で持ってくる)、その人(の霊、又は情報的気の玉)に気を入れてあげればよいわけです。

 

ただしこの時注意すべきは、存在したことが分かっている先祖と把握しきれない先祖がいるということです。また直接血はつながってはいないが、一緒に過ごし深い縁がある方もいたことでしょう、ということです。

 

この点を考慮すると、方法としては、”〇代前の先祖”とひとくくりにして呼び出して、そこに気を送る方法があります。

 

もちろん確実にわかっている範囲の個人個人を順番に行ってもよいでしょう。

 

ここからはIKTM流の考え方なのですが・・・、先祖を先祖霊として、人として扱います。そしてその先祖に良い気を送るわけです。これはその先祖霊にとっては大変うれしい行為です。しかし先に述べたように、すべての先祖霊を個別に把握できない場合があります。すると中には「あの人はやってもらって、私はやってもらっていない。ずるい。」と感じる方(先祖霊)が出てしまうことがあるということです。

 

この場合、その先祖霊は我々に良い結果をもたらさない可能性があります。

我々の目的は現世利益ですから、こういった状況はなるべく避けたいわけです。

 

ですので、先祖(霊)に気を送る時は、なるべく公平にするか、その人が納得する形で気を送る必要がある。としています。(生きている人に接するのと同じですね。)

 

ほんじつはここまで

前述した先祖や風水のための気功(眼に見えない)技術は、認知科学式の気功にもIKTM流にも多くあります。

 

気功の技術して行うこともできるし、スピリチュアルや信仰に近い領域で実践することもできる世界です。

 

どちらでも良いのですが、活用する方がどちらの方が好きか?臨場感があるか?で判断されればよいかと考えています。

 

thekerrias.hatenablog.com

アジュナチャクラの光について 後半

ほんじつはおめでとうございます。The Kerria Sasaと申します。

本稿は前回の続きになります。検索で来た方は下記リンクを見てからでお願いします。

 

thekerrias.hatenablog.com

 

私の場合

私の道程を紹介します。全ての人がこうなるわけではありませんので念のため。また最初からはっきりと見えたわけではなく、最初は本当にはっきりしない(眼閃が見えたかどうかも怪しい)状態からのスタートでした。

STEP1:眼閃(丹光)があることを知る

学生のころから目を閉じるとゆらゆらと動く光がみえることは認識していました。ただしそれは視神経が刺激されることによるものだと理解していました。

 

しかし私の気功実践のきっかけである高藤聡一郎氏の仙道関連の本を読んだところ、それは丹光でありその光は意識でコントロール可能であるとの記述を発見。神秘行へのあこがれから目を閉じて瞼の裏の光を追いかけることはよくやっていました。”その3”の方法ですね。この段階ではアジュナチャクラの光を見る意識はあまりありませんでした。この段階では強い光や明るいと感じるようなことはありません。またその丹光も安定していません。

 

STEP2:瞼を通った光を見てその気になる

STEP1からだいぶ間を開けてになるのですが、認知科学式気功の師匠からアジュナの光は共感覚のひかりであることを学びます。目を閉じた状態で瞼を通して見える(感じる光)を当たり前だと思わずに、その光が呼び水になる又は、アジュナの光そのものだと思い込んで訓練するようにしてみました。

 

手のひらの触覚共感覚を訓練する際に気の玉を作ります。その際に実際に物を触ってその感覚を覚えておき、気の玉(実在しない情報的もの)を感じる訓練をする方法と似ています。同じ共感覚であればこその練習方法とも言えます。

 

練習方法その1とその2をことあるごとに行っていました。長時間ではなく短時間でちょこちょこと。仕事中でも悩むふりをしてその2の方法を実践してみたり・・・・。

 

STEP3:突発的に明るさを感じるようになる

しばらくすると、夜中寝ているときにほぼ真っ暗なはずなのに(瞼を透けて入る光はない状態)、左目の下半分だけ一瞬強く明るくなることがありました。

師匠から予測されていた現象でしたので驚きはしませんでしたが、とても奇妙な感覚です。そして光る場所がアジュナの額方向(上部方向)ではなく下方向であったことも驚き(ちょっとがっかり)でしたね。

 

このころはすでにその1の練習方法メインとなっています。常時明るいわけではなく、ごくごくまれに明るくなるだけの状態です。ただし瞼の裏の眼閃はほぼ見える状態になってきました。

 

STEP4:その他の共感覚と相互補完していく

上記STEP時のころから、気の玉の感覚がよりリアルになってきました。これは光の共感覚を鍛えることで、その他の共感覚が研ぎ澄まされていったと理解しています。

 

また逆に、その他の共感覚を感じる練習(この場合気功を行った結果の体の感覚の変化を感じようとすること)を行っていると、眼閃(丹光)がより感じられることを認識しました。

 

アジュナの光も共感覚であるので他の共感覚と連動しているのです。

 

STEP5:意識すれば光を感じる

最初は瞼を通して入ってきた光とわざと混同させていたのですが、真っ暗な場所でも同じように光を感じるようになりました。目を閉じて光を感じた時に、手で外部の光源を遮っても同じように光が見える状態です。

 

特にその1の方法でアジュナチャクラに意識を向けると、視界(眼は閉じてますが)の上部が明るく感じます。また眼閃のもやもやがランダムな動きをする状態から、その光がまとまっていくようなことがおおくなっています。

現在この状態から少し先に行ったところです。

 

気を付けるべきこと

一言で言うと、”やりすぎない”ことです。

 

アジュナチャクラの光を見る訓練はとても楽しいです。ついつい目をとじてそればっかりしてしまいます。様々な情報(本やインターネット)にあふれるアジュナチャクラの神秘性やスピリチュアル性ゆえに、なにかがおこるかも・・・といった期待があるとなおさらです。

 

この光を見る練習は一種の瞑想状態になっています。このとき心に浮かんだ様々な事柄がヴィジョンとして”本当に見えた”ように感じたり強い神秘体験をすることがあります。

 

私もふいに道路に設置された看板が見えた(なぜか白黒)ことや、宇宙人(?)のようなものが見えた気がしたことがあります。いずれも意味のないことです。

 

これらのこれにとらわれ、追い求めることはよいことではありません。いわゆる”魔境”の境地に近いといえます。意味のないことにとらわれて、時間を無駄にしてしまいます。また禅病と言われる体の不調や幻覚(そういう意味では私は危なかった。師匠についていない前述したSTEP1の時でした。)が現れる可能性もあります。

 

私たちは共感覚で光をみている(のにすぎない)のです。

 

大事なことは

アジュナチャクラの光を見ることが目的ではないはずです。

 

この光そのものの活用方法はありません(たぶん)。夜道を照らしてはくれません。光が見えたのは共感覚が鍛えられた結果に過ぎないと考えてください。情報的存在であるチャクラが活性化したととらえてもよいかもしれません。(活性化の定義があいまいかもしれませんが)

 

チャクラの開発の目的は何か?を考えてください。(本当は最初から考えるべきですが、なかなかそのような人はいないのが実情)

 

そのチャクラで共感覚で何をするのか?です。その結果どうなりたいのか?です。

ネット上にはあれこれ書いてあるけど・・・。都合の良いことばかり書いているけど・・・・。人によって、サイトによって、本によって微妙に言うことが違ったりしませんか?

 

たしかにスプーン曲げや味の変更(すっぱみを抜くとか)がやりやすくなることもありますが、だから何?なのです。そんなものはすぐに飽きてしまうでしょう。

 

自分のやりたいこと・なりたい自分・ゴールによって必要な、開発されるべき能力の素地ができたと考えると良いと思います。

 

私の場合、病気施術のための気感強化やIKTM流の霊視強化のためのオーラ視などの習得がしたかったのです。その訓練のプロセスの一つにアジュナチャクラの光があり、その結果、光の共感覚→その他の共感覚強化→気感強化とオーラ視の強化、とつながっていったと感じています。

 

共感覚強化が直接の目的でなくても、気功の上達が目的であれば必要な共感覚が鍛えられてゆくでしょう。気功が格段にやりやすくなります。

 

気功が目的でなくとも、共感覚の強化による洞察力向上やIQの向上による目的達成のサポートは期待できるかもしれません。

 

いずれせよ、光を見ることが目的ではなく、開発された共感覚(さらにはチャクラの活性化も入れてもOK)により、自分の目的達成のためのツールや素地になっていくはずです。

 

逆に目的が全くないと、単に光が見えておしまいです。ある意味もったいないですね。

 

ほんじつはここまで

アジュナチャクラの光について、自分の体験談も交えて記してみました。

誇張をしていない分、巷に多くいる覚醒者(?)に比べるとずいぶんしょぼい状態かもしれませんね(笑)。

 

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アジュナチャクラの光について 前半

ほんじつはおめでとうございます。The Kerria Sasaと申します。

 

本稿では、アジュナチャクラの光についてそのさわりを紹介いたします。

これまで本ブログでは、ほとんどが理論や技術の紹介や解説が多かったのですが、今回は自分(私)のアジュナチャクラの光の見え方について、その道程を紹介いたします。

 

まだまだ道半ばであり、先達の方々には鼻で笑われるレベルであることは重々承知しておりますが、誰かしらの参考になればと言うことと、自分の備忘録として記していきたいと思います。

 

アジュナの光とは

アジュナの光とは何か?ですね。瞑想や気功、神秘行などを実践している人はご存知かと思います。当然流派によって違うわけですがほとんどが、ここでは

目を閉じた時に額またはその周辺に見える光

を指すこととします。

 

普通は目を閉じたら暗いため、額周辺の光など見えるはずもありません。

 

しかし、訓練により又は生まれつきこの光が見える人がいます。

また古今東西、この光を見たいがために修行をする人もいるくらいです。この光が見えるようになると、超能力的なものが得られると言われることもしばしばです。(この光が見えただけでは意味がないとは思いますが)

 

歴史上の人物で言えば有名なのは空海でしょう。彼の著書に”口に明星が飛び込んできた”と記してあります。これは強烈なアジュナの光を見た(感じた)ことの比喩と思われます。

 

またIKTM流(私が修行してきたヒーリングメソッド:I had received the Knowledge and Trained healing Method.)の故師匠は、成人するまで普通は目を閉じると暗いと言うことを知らなかったそうです。曰く”目を閉じるとお日様が目の前にいつもある”とのことで、学生の時に友達と話をしていてどうも話が合わないため、おかしいと思ったそうです。生まれつきの例ですね。

 

チャクラについて

少しチャクラについておさらいです。本ブログでもいくつかチャクラについて扱ってきました。

チャクラは体の情報的部位と捉えることができます。対応する肉体の器官は諸説ありますが、本質的には情報的(又は霊的と言っても良い)なものと捉えた方が良いと考えています。

ja.wikipedia.org

この中でアジュナとは、第6チャクラを指すわけです。

 

よくこのアジュナチャクラは松果体のことであると言われています。(もちろんその通りなのですが、前記のようにチャクラは情報的な存在です。抽象的であるともいます。(抽象度が高い)ですのでもっと多くの情報を内包していると見て良いと思います。)

ja.wikipedia.org

この松果体は上記のWIKIのように、かつて進化の過程では光を感じる登頂眼と同一であるとすると、目を閉じて光を見るのに適しているかもしれません。

 

このチャクラのことを、サードアイ:第三の目とも言うことがあり関連を感じさせます。

 

光の正体

このアジュナの光の正体ですが、これまた色々考えられます。

 

怪しげな(失礼!)スピ好きな人は宇宙からの神秘のうんぬんと言いますし、超能力が欲しい人(?)は見えないはずの光が見えることから透視能力(?)の一種だという方もいます。とかくオカルトと結びがちであったりします。

 

どの考え方でも良いのですが、今回この場では以下のように考えると良いかと思います。

情報的器官であるアジュナチャクラの情報を、共感覚のうち視覚(光)で捉えている

このように理解することで、この光を見ることに対して余計な様相が外れ、見るための最適な素地(考え方)ができるかなと思います。

 

光の見え方を訓練することは共感覚の訓練であると理解すると、以前本ブログで紹介した内容も活用できると思います。

 

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どうやって見るのか

一般的(?)なアジュナの光を見る修行(?)は瞑想(?)が多いようです。すみません”(?)”だらけですが。

 

曰く、静かに座って額のアジュナチャクラに意識を集中すると見ることができるといった極めて穏やかな方法から、過激な滝行を行うことで見ることができると言うもの。はたまた交番磁場発生装置を額に当てるようなものまで・・・。

 

いずれにせよ共通するところは、アジュナチャクラに意識を向けることにつきます。そしてその状態で瞼の裏を見るのです。(目を閉じて光を見るので当然ですが)

 

具体的な練習方法です。私がやっている(やってきた)方法です。いくつかあります。いずれも体をリラックスさせると良いです。体勢は座っても寝ていてもよいです。

その1:額に意識を集中して、その意識集中した額に目線を向ける方法。

簡単でいつでもどこでもできる方法です。かつ行法的には一般的でもあります。このとき額の一点に意識を乗せるのがコツです。また目が上を向いた状態になるため目に力が入ると疲れてしまうことがあるので注意で鵜s。

 

その2:額に指先を当てて、そこに意識を集中する方法

集中するポイントを明確化するだけでなく、手から出る気を補助として行う方法です。この方法はやりすぎると脳が疲れてしまうので短時間限定です。

 

その3:額に意識を置いて、ただぼーっと目の前を見る方法

この方法だけををやっていてもなかなか見えるようにはならないようです。(故師匠のように天然な人は除く・・です)ただしコツとしては、目を閉じて瞼の裏に見える光の動き(眼閃。伝統的な流派では丹光ともいいます)をとらえていきます。

ja.wikipedia.org

上記を組み合わせてアジュナの光を見る訓練をするとよいでしょう。

 

またもう一つあるとすれば”伝授”によるアジュナチャクラの活性化です。これまた様々な流派で同じような技術が存在します。IKTM流でも認知科学式気功でも共にあります。

 

ただし伝授を受ければいきなりゴリゴリに見えるというわけではありません。見えやすい素地を作り訓練成果を加速する場合が多いです。(ごくまれにいきなり見えてしまう人もいますが)

 

ですので伝授を受けた後、何かしらの方法の訓練が必要です。もちろん伝授は必須ではありません。この光は共感覚であることを理解し淡々と訓練をすればよいとも言えます。

 

本日はここまで

少し長くなりましたので、私の体験談は次に送ります・・・・。

 

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言葉に従う

ほんじつはおめでとうございます。The Kerria Sasaと申します。

 

本稿では、IKTM流(私が修行してきたヒーリングメソッド:I had received the Knowledge and Trained healing Method.)の霊と言葉の関係性について少し述べていきます。

霊に関する事柄は流派・宗派で言うことが違いますので、あくまでもIKTM流の・・・となります。また霊が本当に実在するのか?と言った至極真っ当な疑問に関しては、ここでは横に置いておいて頂いて、霊は何らかの形で存在するものとして話を進めます。

(IKTM流は霊の存在を肯定し、積極的(?)に活用する立場にあります。)

 

今回もかなりマニアックで、ちょっとスピリチュアルかもしれません。しかし一部認知科学的な解説も試みてみます。

 

言葉に従う

霊的な物は言葉に従います。

これはよくある引き寄せの法則のことではありません。より具体的に霊的なものに働きかける文脈です。

 

霊は人が発した言葉に縛られます。

(後述する例外や枠に当てはまらない事象も多くありますが、基本的にはこの通りです。)

霊の行動(?)を限定したり、許可を与えたりするイメージです。

例えば神社などでお供えをする際、「お召し上がりください」と言わないと相手(?)はそのお供えを食べることができません。(あれ?あまり例えになっていないかも・・・)

 

言霊信仰に近い

霊的なものは全てのものに宿っています。(これはIKTM流の考えですが、神道的な考えでもあります。) 人や動物だけでなく、無生物やこの世に存在する(実在、概念、空想とわず)もの全てに宿っていると考えます。

また、全ての霊的存在には意識があり人格(物格?)があるとしています。究極的には全て人間と同じような存在と捉えることができます。

 

と言うことは、普段人(相手)やペットに話しかけるだけでなく、発した言葉の内容の全てが霊的なものへ向けて発したことになります。全てに相手がいるわけです。

ですので、汚い言葉遣いを避け、言葉遣いに気を付けるべきだと言うことになります。(この辺は言うは易しで、なかなか全て常時できるものではないですが・・・)

 

これはすなわち「言霊信仰」ともいえます。

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IKTM流は古神道の思想がベースにあるので当然とも言えます。

 

霊の特定

前記の言霊思想や躾・お作法的なものから発展して、IKTM流ではこの霊への言葉による縛り(の作用)を使って、自分が意図する霊的存在を特定していきます。

 

例えば自分の身体の痛みに関連している霊を特定する場合を考えます。

一般的な霊能者(?)や見える人は、見て特性すれば良いわけです。認知科学式気功では「蟲」と言われる体にあだなす情報体を「気の視覚化や共感覚訓練」などによりその蟲を特定・除去したりします。

しかしIKTM流では見える感じるを重要視しないため、誰でもできる方法として、言葉による特定を行います。「私の痛みに関与する霊」と名指しをするのです。

 

この時、より確実の関連する霊(痛みに関する霊)を特定するためのお作法や印(手印、体動、呼吸、意識)は存在しますが、肝は「言葉」です。「私の痛みに関与する霊」でも良いのですが、より具体的に指定をします。例えば「昨日からある首の右側の痛み」など具体性を持たせるのです。

 

そして日本語としておかしくない文章であることが必要です。変なとは言っていて違和感があるような言い回しです。言葉で意味は通っても腑に落ちないかんじがするものはいけません。

 

言う、書く、思う

ここでもう一つの疑問は、言葉を発する(言う)のは良いが、思うのはどうなのか?と言うことです。汚い言葉を発しなくても、心の中で汚い言葉で罵るようなことをした場合、霊的対象に届いているのか?です。

 

結論としては届いていると考えます。しかし薄い届き方ととらえます。

 

純粋な霊的存在は心(思念)100%なので、思う=言う、となりますが、我々は肉体を持っているため、制限が生まれるためです。また、言う以外に動作するすなわち書くことも意識を外に出すことになります。

 

ですので多少乱暴ですが、言う ≒ 書く > 思う となります。

認知科学式に言うと、臨場感の捉え方と言えます)

 

気をつけなければいけないのは、全く届かないわけではないと言うことです。

例えば神社にお参りする際に、言葉では「どうぞお願いいたします。」と言ってはいますが、心の中では「てめーお賽銭ドロボーしたらしょうちしねえぞ?」と思っているような場合は、まぁよくないわけです。

 

言葉を発すると、書くと、心で思うの差はあるが、過信は禁物です。(人間ですのでなかなか完璧は難しいです。私も人のこと言えない・・・・)

例外的なところ

先述したように霊的なものは言葉に従います。

 

もしこれが本当で霊的な存在が人に作用することを肯定する立場であれば、以下のように唱えれば万事OKとなるのではないか?と言うことです。

「私の身体的不調と能力発揮を妨げている全ての霊」

 

・・・しかし残念ながら、これでは対象とするものを特定しきることができません。

 

理由は二つあります。一つは、自分の霊的実力が伴わない、すなわち霊を特定しても処理(浄霊と称する場合が多い)できないような霊の場合。この場合たとえそのような霊的なものが存在していたとしてもその霊は言葉に従いません。二つ目は言葉の内容が広すぎて特定しきれない場合です。臨場感の欠如とも言えます。またそのような霊が存在しない場合もあります。

 

先のように痛みを処理する場合、IKTM流においては霊的なものを処理することでその目的を達成する試みを行います。それには術者の霊的実力が備わり、且つ明瞭で的確な言葉で対象の霊的存在を名指しることが必要なのです。

 

ほんじつはここまで

霊の特定は感覚的には指名に近いです。そして明確に特定できる言葉を決めることで、名指しているとも言えます。

 

認知科学式気功で言うところの、クリプキの「名指し」や「可能世界」につながるところもあります。(ほとんど同じだと思うのですが、まだ少し引っかかる部分があるのでこの辺の解説はいずれまた。)

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今後もIKTM流の世界を、認知科学や超情報場で読み解いていければと考えています。

 

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血液に働きかける気功技術

ほんじつはおめでとうございます。The Kerria Sasaと申します。

随分と間が空いてしまいました。

 

本稿ではIKTM流(私が修行してきたヒーリングメソッド:I had received the Knowledge and Trained healing Method.)の技術と、認知科学式気功の技術のうち、非常に共通点のある気功技術について解説をしてみます。

かなりマニアックです。すみません。

 

血液に働きかける気功技術

今回紹介する技術は、どちらの流派も人の身体を具体的に癒す方向の技術です。能力開発というよりも、医療気功の領域のものです。(気功を医療ということに違和感がある方もいるかも知れません。しかし病気や障害となるものを除去する方向の使い方にほぼ特化していることから、ここでは医療気功技術と呼びます。)

医療気功と言ってもさまざまな対象(疾患、病気など)あるわけですが、今回のターゲットは血液です。体内をめぐる体液のち今回紹介するのは血液です。

 

血液の疾患について

人体の血液量は体重の1/13(およそ8%)と言われています。この量を多いと感じる方もいれば、少ないと感じるかも知れません。この量の血液が心臓から送り出され、動脈、毛細血管、静脈とめぐり、人体の末端まで血液を行き届かれています。

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ターゲットが血液ということは、対象とする疾患は当然血液絡みのものです。具体的な疾患名は伏せますが、血液の成分、(血球などを産生する)骨髄などに異常をきたすものが第一に挙げられます。また、付随して血液が正常化されていくことにより良効果が期待できる、腎臓、肺、消化器、心臓などの臓器、また血管なども関連してきます。

もう少し言うと、血液の成分を狙っていると言っても良いでしょう。(実は少々乱暴な表現ではあるのですが)

 

共通する技術のコア

気功の対象が前記のように血液となります。ではどのようにその血液に働きかけるのか?です。

世の中にはさまざまな気功やヒーリング技術があり、それぞれがそれぞれの術理にしたがて対象とする人体のパーツや機能に働きかけますが、この血液に対する技術に関しては、IKTM流と認知科学式気功はとてもよく似ています。

いずれも「1.脈を取りながら、2.その指から、3.気を血液そのものに送る」というものです。

このプロセスを経て血液に気を送ることにより、血液の成分の改善を期待するものです。

 

1.脈を取りながら

技術を分解して考察してみます。

脈を取ると言うことは、血液を強く意識できます。単に気を血液に送るだけならなら、体の至る所に血液は存在するため、触れた状態で気を送るのであれば、別にどこでも良いはずです。

しかし、わざわざ脈をとるのは、対象とする血液を意識に上げるためです。脈を折ることにより強く血液血管を意識することができます。

各技術での違いがあるのは、脈をとる位置だけです。

IKTM流では頸動脈を使います。首の動脈ですね。これ以外の場所は使いません。頸動脈に沿って第2関節ぐらいまでの指の腹をつけて、そこから気を送ります。また頸動脈は大きな血管ですので、胸鎖乳突筋の脇に指を置けば脈が感じられなくても血管を意識しやすいといった事情もあります。

認知科学式気功では、手首の脈から送ります。具体的には橈骨動脈ですね。ただし脈が取れる場所ならどこでも良いとされています。脈を取ることで血液を意識に上げるることが重要であるためです。

いずれにせよ重要なのは、血液の臨場感ということになります。

 

2.その指から

指から気を送るのは、指は気を出すことが得意な部位だからです。また気の量的なところもありますが、非常に敏感な部位でもありますので、脈の変化、クライアントの変調、気を出したことによる人体への触覚共感覚的フィードバックの取りやすさなども挙げられるでしょう。

3.血液そのものに送る

指から出た気はとのように血液に送られるのかというと、一番近いのは点滴かもしれません。気は送るだけで、巡るのは自然の血流に任せるのです。

血液は約1分で人体を一周するので、数分〜10分もすれば全身に行き渡っているはずです。(そう言う意味ではIKTM流の方が効率よく気が巡るかも?)

私は気が血液を伝搬していくと考えるとしっくりきます。

この手法により、余計な血液や血管の機能(具体的には血液など)に惑わされることなく、血液そのものに意識をフォーカスすることができます。

IKTM流では素早く全身の血液に働きかけるために、動脈・静脈・毛細血管の順で血液への気の伝搬を促す手法があります。しかし初心者のうちはどうしても先述した血流の意識となってしまい、本来血液そのもの(または成分)に意識を向けるべきところが、血液血管の血流機能に意識が向いてしまうため、本来の効果が出ないことがあります。

 

一気に仕掛けても良い

この二つの技術の最重要なところは、血液に気を送る、ことにつきます。そのために上記のステップを踏んでいるにすぎません。

いずれの技術も習得が進むと、ゆっくり気を流していくのではなく、積極的に気を血液に送ることができるようになります。

全身の血液を意識に上げることができれば良いのです。

しかし初心者や慣れないうちに行うと、血液以外の部位にも気が届いてしまい、本来の目指す効果が薄くなることが多いようです。

この辺りは、自分の状況をよく鑑みてトライするのが良いでしょう。

 

なぜ似ているのか?

いずれの技術もその技術の創始者が創意工夫し、最も効果的な方法を前記の視点で練った結果似たものになったことが予想されます。

もちろん私の知らない元となる技術が存在し、その技術をお互いに取り入れていったのかも知れませんが。

 

逆に異なるところ

最後に多少異なることも紹介しておきます。

IKTM流は、気を送る際に、血液中の邪気を取るためのフィルターを意識で作ります。そのフィルターに溜まった邪気を定期的に取るといったこと行います。

IKTM流のこの血液に対する技術はよく腎臓疾患の方に用いるため、その効果機能を向上させるための手法と理解できます。

認知科学式気功に取り入れるこはできますし、その他さまざまな改良をなさっている方もいるようです。

 

ほんじつはここまで

今回は異なる流派の、よく似ている技術である、血液に関する技術について考察してみました。

見た目が似ている技術、抽象度を高くすると同じ技術などありますが、ほとんどが認知科学的な視点で紐解くことができるものが多そうです。

(もちろん説明がつかないものもあるのですが)

おいおい紹介できればと思っています。

 

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お伺い

ほんじつはおめでとうございます。The Kerria Sasaと申します。

 

本稿ではIKTM流(私が修行してきたヒーリングメソッド:I had received the Knowledge and Trained healing Method.)の技術である、”お伺い(おうかがい)”について、共感覚の考え方(認知科式気功)を使って、解説をしてみます。

 

技術”お伺い”

最初に”お伺い”とは何なのか?説明していきます。

まずは簡単にその概要を述べてみます。専門用語(?)はなるべく使わないようにしますがどうしても一部は残りますね・・・。で、以下の通りです。

呼び出した自分の霊に向け手をかざし、その自分の霊に質問をして、かざした手と腕の不随意な動きをもとに、質問の回答をYES・NO形式で得るもの。

これだけでどれほど理解して頂けるのか非常に不安がありますが・・・・。

 

IKTM流では、除霊・浄霊を肯定し積極的に活用します。このお伺いはその際に使用することが多いです。

 

一番多い使用状況としては、浄霊したい霊を呼び出し、自分の霊を通してその霊の情報を得るためにお伺いを使用します。その対象の霊の情報を得る過程でその霊と対話することになります。そのプロセスがとても重要で、その霊にしてみたら少しでも自分をわかってくれたことになり、それはその霊にとってとてつもない施し(ほどこし・情け)になります。

 

優秀な霊能者の方なら、直接その浄霊したい霊と対話をすれば良いのですが、その能力がない人でもそれが可能になる技術がこのお伺いです。

 

IKTM流の解釈では、直接YES・NOを問う質問を対象の霊にしても、その霊が術者の手や腕を不随意に動かすことに慣れていないのでうまく答えられない。また嘘をつくこともある。とされています。

 

その点自分の霊が相手であれば、事前に動かす訓練もできますし、嘘もつきません。自分の霊が対象となる霊の情報を把握し、術者に伝えているのです。

 

お伺いの不随意運動

前記のようにお伺いは、手と腕が不随意に動きます。

標準的には、YESは円を動くように動き、NOは横外にスライドするような動きをします。

 

例えば先ほどの浄霊の時を例にすると、質問が「この方は男性ですか?」とした場合(自分に聞いているのでこのような聞き方になる)、対象の霊が男性であれば、その質問の後に、腕が勝手に(不随意に)円を描きます。自分の霊が術者(自分)の腕を操作しているといえます。

 

この時、この答えはきっとこうだな・・・などと思いながら行うと、そのように腕が動いてしまします。完全に答えを予想しないような心の状態にするか、第三者として俯瞰するような意識状態が求められます。

 

ですのでしっかりとこの”お伺い”ができていると、仮に答えを予測するような場面であってもその答えとは違うYES・NOの結果がくることになります。

 

また残念なことに、自分の欲が入った質問は外れる傾向にあります。いかに心を無にしたような状態でも、その的中率は下がると言われています。(この辺も理論があるのですが)

 

例えば値上がりする株の予測などにこの”お伺い”が使用できれば良いのですが、そうはいかないということです。

 

IKTM流での願望実現方法は別の方法論があります。いずれまた。

 

訓練で身につける

このYES・NOの不随意の動きは訓練で身につけます。

 

最初は絶対にYESとなる答えを自分の霊に行い、その状態で意識的にYESの動作をするのです。そして徐々に意識を外していきます。腕が止まった状態から動き始める段階がもっとも困難で時間がかかります。中にはこのお伺いの習得を諦める人もいるぐらいです。

 

後述するこの腕が動くカラクリが(修行当時)わかっていれば、習得に工夫ができたとは思いますが、当時の伝統的習得方にはひたすら繰り返すしか方法がなかったのです。

 

もう一つこの技術で重要なことは、腕や手を完全にリラックスさせることです。肘は曲げ、手首は緩め、指も自然に湾曲させたような状態です。

 

このリラックス=筋肉が緩んでいる、関節に力が入っていない状態が重要で、少しでも力が入っていると腕の付随運動が起こらず、質問の答えを得ることができないのです。

 

完全脱力状態では当然ですが腕を支えられず、手をかざすことができません。腕を支えるだけの筋力のみ残し、他の力を完全にぬくのです。

 

この状態で初めて、お伺いができるようになります。

 

お伺いを考察する

お伺いを考える上でこ大きなポイントは二つです。

 

一つは自分の霊を呼び出すこと、もう一つは不随意な手と腕の動きをさせること、です。これらは認知科学(式気功)や共感覚の理論で説明できます。

 

まずは”自分の霊”です。

 

これは認知科学式気功では、自分のアバターと同義です。

 

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”霊”というと拒絶反応を起こす方でも、気の玉で作り出した自分のアバターと解釈すると受け入れやすいかと思います。

 

気の玉で作るアバターは、自分の気による分身であり、自分とアバターは相互作用を起こすものです。(アバターをヒーリングすると自分がヒーリングされる)

 

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そして”不随意運動”です。

 

これはこれまで解説してきた共感覚です。

 

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脳と心でキャッチした情報(この場合はYES・NO)を、無意識に体性感覚・挙動感覚に再マッピングしていると捉えることができます。

 

繰り返しの共感覚の訓練により、再マッピング先を挙動感覚に関連づけることで、不随意運動の起こるパターンの方向づけを行うのです。

 

先ほど述べた習得の工夫とは共感覚の訓練のことを指します。腕が動くような挙動感覚のフィードバックが出ない場合は、それ以外の共感覚(視覚や触覚)を鍛えることで、その挙動感覚が磨かれていきます。

 

共感覚の再マッピング先は連動していて、何か得意な一つを伸ばしていくとたの共感覚も理解できるようになっていくのです。

 

ではここでまとめてみます。

 

お伺いとは、

自分のアバターに質問をして、その答えを無意識の共感覚のフィードバック先として腕の挙動に設定したもの。

となります。さらにシンプルに本質のみを言うと、

自分に質問してその無意識にある答えを共感覚で得るもの。

となります。

 

お伺いのコツ

お伺いはYES・NO形式の質問をします。答える側か必ずYESかNOしか無いような質問にすると言うことです。

 

先ほどの本質からも上記のコツがあることがわかります。

 

曖昧な質問では、霊にせよ、自分のアバター(無意識)にせよ、正確な答えが出せないのです。

 

複雑な質問も、質問内容を分解して単純化し、その質問を重ねることで回答を得ていきます。

 

本日はここまで

少々乱雑になってしまいましたが、IKTM流(私が修行してきたヒーリングメソッド:I had received the Knowledge and Trained healing Method.)の技術を認知科学式気功的な解釈を試みてみました。

 

古神道や伝統的な技術にある”霊”の考え方も、”情報”の所業であることを考慮することで少しでもオカルト色が抜けて、次世代に伝えやすいものになっていけばと思っています。

 

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気功的共感覚ちょっと補足

ほんじつはおめでとうございます。The Kerria Sasaと申します。

今回は、前回、前々回で深掘りしてきた共感覚について補足です。

 

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これまで共感覚の再マッピング先は、五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)と深部感覚(筋感覚と重量感覚)であることを述べました。

 

実はさらに、再マッピング先の感覚があるのでその紹介をいたします。

 

加速度の感知

これは気の情報感知の再マッピング先が、三半規管の場合です。すなわち平衡感覚であり加速度感です。

三半規管とは耳の奥にある器官です。

ja.wikipedia.org

 

気を感じると、めまいを起こしたり平衡感覚に変調をきたしたりします。よくあるのは体全体が揺れるような感覚を得たりします。

 

内臓感覚

内臓感覚とは、内臓に備わっている感覚により、飢餓感、かわき、吐きけ、便意、尿意、内臓痛を感じることです。

 

気を感じると、特にネガティブな情報の気を感じることで、吐き気やお腹の痛みを感じてしまう人がいます。これがその原因と言えます。

 

人と対面している時だけでなく、特定の場所に行った時に感じることもあります。

 

感じる情報の種類によって、反応がある内臓が異なったり、同じ臓器でも感覚が異なったりします。

深部感覚さらに補足

多くの気功では、手のひらから気を出すと、手のひらの赤みがまだらになる現象が起こります。手のひらの色が変わるのです。

全ての気功で起こる現象ではありませんが、非常に多いパターンです。

 

手のひらが赤くなる(まだらですが)ということは、その部分の血流が変化していることになります。赤いので血流量が上がっている状態のはずです。

 

ただしここで注意しなければいけないのは、肝臓に疾患がある場合でも非常に似た手のひらの色が変わる現象があります。気功のまだらは細かいまだらでまるでソーセージのサラミのようなイメージです。肝臓の場合は割合と大きい”ぶち”であることが多いですが、必ずそうなるわけではないので気になる方は医師に相談をお願いします。

 

同様に気功を行うことで手のひらが温かくなる現象もよく起こります。前記の通り血流量が上がることで、温度が上がると解釈できます。

(手のひらが温かくなる現象は心因的自律神経的にも起こりますので、手のひらが温かくなる=気が出ている ではありません。)

 

血流が変わる原因も深部感覚によるフィードバックである可能性があります。

 

血管平滑筋が緩むことで血流量が上がることが予測されます。

 

本日はここまで

これでようやく気功的共感覚について述べることができたと思います。

少々小難しい内容になりましたので、まぁこんなこともあるかと思っていただければ良いです。

 

基本に戻って、楽しみながら気を感じて、楽しみながら気功の実践をして、楽しみながら継続していただければと思います。