気の玉の大きさについて
ほんじつはおめでとうございます。The Kerria Sと申します。
本稿では認知科学式気功などにおける基本技術である、気の玉の大きさについて考察したいと思います。
初めて玉を作るとき
気功を初めて間もない頃、気の玉を作るように指導されます。認知科学式だけでなくその他の気功法でも気の玉を作ることがありますね。(私が知る限りでは矢山式気功法などがそうですね。)
その気の玉を作る際には、パントマイムのように両手の中にボールを持ったイメージを持つかと思います。(厳密に言うと人によると言うことになりますが)
自分自身ではこれが当たり前、または、まぁこんなものだを思っていても、実は人によってばらつきがあります。不思議なもので気功の先生が目の前で気の玉を作る様子を見せても、その先生のパントマイム的なボールの大きさに気の玉を作る方は実は稀です。
全員とは言いませんが、小さく作る方が多いです。小さく作ることが悪いわけではありません。そのような傾向があると私の経験から申しております。
大きめのおにぎりを握るような感じでしょうか。指の根本の関節(MP関節)から指を折るようにして、指の第1と第2関節は少し伸ばし気味な体勢です。少し指や関節に力が入っているように見えます。
恐らく想起するボールの大きさを決めていないため、手の感覚を頼ってしまい手と手の間隔が狭まった結果そのようになってしまったのかと思います。
ボールが先か気感が先か
気のボールを作ると言う事には、何重にもその意味するところが内包しています。
初心者の方のための解釈から上級者の方まで、全ての気の玉を扱う気功師又は習学者に対して有用な使い方があります。
とはいえ、初学者にとって気の玉とは、気を感じるための入り口であり、結界、封入の入り口でもあります。ですので気を感じようと努力することは問題ありません。
しかし”玉状”の気感を感じないと、気の玉を作ることの意味が半減してしまします。気を感じるだけであれば、左右の手のひらを向かい合わせて感じてもいいですし、片方の指先をもう片方の手のひらに近づけたりした方が簡単に気を感じることができたりします。
”玉”が一番身近で単純で当たり障りのない(!)形といえます。その”玉”を想起して内部表現を操作し、その結果共感覚として手のひらに感覚にフィードバックされています。
ですので、気の玉、特に初学のうちの気の玉のワークを行う際には、”玉”であることは忘れないようにしたほうが良いでしょう。
大きさ
では、気の玉の大きさはどれくらいが良いのでしょうか?
人によって手の大きさが異なりますので一概にはいえませんが、手が一番リラックスした状態で玉を持つことができる大きさ、と言うことになります。
手指の関節が自然に緩むぐらいが理想ではあるのですが、実はそれにこだわりすぎると人によってはかなり小さなボールになってしまします。そのちいさなボールの大きさを想起して気の玉を作る場合、手首に力が入ってしまうことがあります。手首に力が入らないようにするとボールを持ったようなパントマイムにならない・・・と。
ですので、私個人的なお勧めは、ソフトボールからハンドボールぐらいの大きさが良いかと思います。
手の大きさによって違いますが、これぐらいが一番バランスが良いと思います。
重要なのは、実際にその大きさのボールを持って(実物や近い大きさの玉状のものを持って)手の感覚を覚えることです。指の第1関節がボールに触れる時の感覚、手首の近くの掌が触れている感覚など、細かく自分の手の感覚や形の状態を記憶しましょう。
自分でみてみる
いとつの例としてソフトボールを出しましたが、絶対にこの大きさである必要あありません。
是非色々と試してください。その時にスマホをお持ちの方は自分の気の玉のワークを撮影しみてください。後から客観的な目で見て、あたかもボールを持っているような手つきになっているか?チェックしてみましょう。
本日はここまで
気の玉のワークをするときは、リラックスです。ちょっぴり笑みさえ溢れるぐらいでちょどいいです。
うーーん。ちょっと気持ち悪いかもですが、それぐらい緩ませて・・・と言うことです。
玉の大きさを意識て的に大きくしたり、小さくしたりする話はまた今度。
神と人と人間と その2
ほんじつはおめでとうございます。The Kerria Sと申します。
本稿は前回の続きです。IKTM流のスピリチュアル観の備忘録として記しています。
スピが苦手な人は飛ばしてください。本ブログでは科学的な気功の話を多くしていますので、是非そちらをどうぞ。
魂
人の魂は神の魂であり、人の本質は神です。人は神の魂を持っているのです。前世カルマの項でも記しましたが、人は生まれてくる理由があります。それは役割を持ってこの世界に肉体を持って出てくるということです。魂の進化のための場合もありますし、神霊界からこの世への介入のために現れることもあります。
また動物など人以外の魂は、神以外の魂を持つこととなります。この場合、その魂は神霊界へは帰らないようです。
魂の配合
地上に出てくる時、その人の魂は一人の神の魂のみであることは少ないのです。いくつかの神の魂が配合されて、人の魂となります。例えばA神の魂が20%+B神の魂が30%+C神の魂が50%といった形です。中には紙の魂が1%のみの人もいるとのこと。
また使命を持って地上に出てくるとき、それは神定会議によって決定されます。何の使命、役割を持って、どこの誰に生まれるか?決定されるわけです。また地上に降りるタイミングは妊娠5か月ぐらいです。この時神霊界から神の魂が人の胎児に入ります。
神の魂を持った人は約6人に一人です。見える系の霊能者は頭頂から上へ伸びる白い筒のようなものが見えるそうです。神霊界と繋がっているのです。もちろん私には見えません。
では残りの6人のうち5人の魂は何なのでしょう?それは神以外の魂を持っていることになります。神の魂を持つ人に対して、神以外の魂を持つ人のことを人間と言います。
人間の方がイージーモード
人間が死んだ場合、その魂はどこに帰るのでしょう?
人間の魂は神の魂ではないので、神霊界へは帰りません。神霊界に行かずに転生をします。しかも神定会議もないので自分の思いで転生先を決定できます。その転生先は人間でも動物でもOKです。
転生のサイクルが人よりも早い事も特徴です。よって現世の経験値が高いため、世渡り上手で、商売もうまく、美男美女であることも多いようです。神定会議で定められたお役目を持つ人に比べて、自由でやりたいことが出来る人生です。
ここで重要なのは、自分の魂はなんなのか?分からないという事です。占い師や新興宗教の教祖様が魂の判定をすることもあるようですが、合っているかどうかなんて誰にもわかりません。
神の魂を持っていると信じて気高く生きるのはよいのですが、うまくいかない人生の言い訳にしてはいけません。逆に自分は動物の魂の持ち主と卑下して考える必要もありません。もちろん不確かな情報を元に他人を貶めるような行動をとってはいけません。当たり前です。
とはいえこの世界観は差別的に映る人がいるかもしれませんね。
この世は現身
現身は”うつしみ”と読みます。簡単に言うと、この世(現世)で起こることは、あの世(神霊界)でも起きるし、その逆も然りという事です。全く同じ事象がおこるわけではないですが、関連し象徴された事象が起こります。この世に存在する物、考え(アイデア)は全て神霊界で存在したことがあるのです。
肉体がある方が強い
ではなぜわざわざこの世があるのでしょうか?完全に現身なのであればこの世は不要なはずです。
実はこの辺はよくわかりません。ただ一つ言えるのは、肉体を持った方が強いという事です。肉体を持つと行動を起こすことができます。実態を持たない魂や霊は、物を動かすことができません。しかし肉体と科学の力であれば、どんなものでも簡単に動かすことができます。
この世を変えることにより、あの世の変革が加速できるのです。だから神定会議で定められた役割を持ってこの世に人があらわれるのです。
構造
神の魂ではない魂はどこに帰るのでしょうか?転生をするにしてもその間はどこにいるのでしょうか?それを理解するには、神霊界と現界の構造を理解すると早いです。
神霊界、霊界、幽界、現界の4層構造と考えてください。
神霊界ははるか上空にあるイメージの人が多いかと思いますが、その通りでもあり、間違っています。霊の世界は距離が無いのですから、場所を考えるのは意味がありません。
神の魂は神霊界へ。それ以外の魂は霊界又は幽界に帰ることになります。
次元とは
あの世の大構造はこの世の運行と連動した階層があります。そしてその大構造は”次元”と言われています。よく言うXYZ軸の3次元や、それに時間軸を加えた4次元の考え方とはちょっと違います。そしてスピリチュアル好きな人が良く言う次元上昇(アセンション)とは一切関係ありません。
次元は3次元から7次元まであります。
3次元はこの世です。4次元は神霊界に当たります。5次元は全ての命を司ります。6次元は全てのものを生み出し全体を運行する次元です。7次元は世の始まりを司った次元です。
各次元に主催神がいるらしい。あくまでらしい。で、この次元の考え方には、各次元に主催する神がいます。3次元は大地将軍大神、4次元は国祖国常立大神、5次元は天照皇大御神、6次元以上はよくわかりません。
一旦ここまで
まだまだ描き足りない気持ちもあるのですが、一旦ここまでとします。
気が向いたらまた書くかもしれません。備忘録として。
本来はあまり公開しない内容ではありますが、関連書籍が無いわけではないのでまぁいいかなと。
神と人と人間と その1
ほんじつはおめでとうございます。The Kerria Sと申します。
これまで本ブログでは、IKTM流(私が修行してきたヒーリングメソッド:I had received the Knowledge and Trained healing Method.)の備忘録として、霊、魂、前世など世界も紹介してまいりました。
thekerrias.hatenablog.com
thekerrias.hatenablog.com
霊、魂、前世などの話を続けていると、次はどうしても”神”について言及したくなります(私だけ?)。世界中に宗教があり、神の定義もまちまちです。有名な宗教の神と言えばやはりキリスト教のイエス・キリストでしょう。伝統的には父と子と精霊が三位一体なのでキリストも神という事の様です。またもっと個人的でローカルな神の概念もあります。自分だけの神様ですね。
日本には八百万(やおよろず=たくさんの意味)の神がいる神道があります。生活のいたるところに神様がいるという考え方ですね。
私が修業した技術体系IKTM流(私が修行してきたヒーリングメソッド:I had received the Knowledge and Trained healing Method.)にも神様の考え方が登場します。しかし姿かたちが見えたり、声を聴いたりはできません。ただしごく一部の人はなんらかの方法で神とコンタクトを取れるようです。
ではいったいIKTM流の神とはどういったものなか?こちらも備忘録として記しておきます。もちろん内容はスピリチュアル全開バリバリですので、嫌いな人にはごめんなさい。
今は亡き師匠の家系の世界観を、どこかに記しておきたいという気持ちもあったりします。
そもそも神様っているの?
結論的には私はいると思っています。これは宗教的価値観の問題ですので、無神論者は神の概念が不必要なので無理に理解する必要はないですね。そもそも科学的・客観的・再現可能な証拠は無いですし。
また、神の定義にもよっても違ってきます。神を完全無欠全知全能のなにかだと定義するならば、私は神はいないと思っています。
神道的神様論
以前にも述べましたが、私が修業した技術体系IKTM流は古神道系ですので、ベースは神道の考え方に非常に近いです。ただしシャーマニズム系の考え方である、いたるところに神様がいる(トイレの神様、かまどの神様など)、とは少し違います。
八百万(やおよろず)の神の魂があり、それは階層と役割をもっています。魂の数は約9億。八百万(800万)では無くて9億です。そして その神々は神霊界にいるのです。この神霊界は以前書いたように人の魂の帰る場所に当たります。
人の魂は神の魂なのです。
もちろん師匠の受け売りです。証拠なんてありませんよ?
さて、神の役割とは神霊界や現界の運営となります。そして階層とは上司と部下のような関係のようです。一般的な神道では”天照大御神(あまてらすおおみかみ)”が神様界のトップに君臨しているとされています。しかし私が修行した技術体系ではトップは“国祖国常立大神(こくそくにとこだちおおかみ)”とされています。しかしこの神の名前も時としてその役割によって又は時代によって又は階層の変更により変化するものであるとのことです。
役職名は変わる
例えば役職名で言えば、先の国祖国常立大神の古の役職名は”国万造主大神(くによろずつくりぬしおおかみ)“となります。どちらも同じ神を示しているのですが、同一であることを判断するのは難しいです。当たり前ですね。そもそも神様は見えないですし。
またこの“国万造主大神”でピンときた方はかなりマニアな方とお見受けします。
キリストも神様の一人
もう一つIKTM流の世界観で興味深い事柄として、過去の宗教的偉人の中にはその神の魂を持った人がいることもあるということです。イエス・キリストもその一人です。よってキリストは古神道的神の魂を持った人であり、彼が唱えた教えの根源はその魂から発したものと見ます。敬虔なクリスチャンの方は怒るかもしれませんね。こういった考えの人もいると思って受け流して下さいませ。
この話は古史古伝の話にもつながっていくのですが、それはまたいつか。
今回はここまで
すみません。もう少し続きます。
IKTM流のスピリチュアル観を感じてもらえればいいなぁと。
もちろん苦手な人は飛ばして下さい。
瞑想とりあえずファイナル
ほんじつはおめでとうございます。The Kerria S と申します。
今回はIKTM流(私が修行してきたヒーリングメソッド:I had received the Knowledge and Trained healing Method.)における瞑想について述べたいと思います。
前回の投稿から繰り返しますがヒーリングの訓練を主眼に置いた瞑想です。前回の続きと思って下さい。
今回で瞑想の説明はひと段落のはず・・・です。これまで説明してきた瞑想の中では一番高度な内容になります。
とは言え、初心者の方もトライできる内容かと思いますので、興味のある方は是非やってみて下さい。
体温瞑想
体温のコントロールを行う瞑想です。基本的には体温を上昇させることを行います。
熟達者は全身の体温を上昇させますが、ヒーリングを行うためのものであれば手や足だけで十分です。これができるようになると、変性意識状態が深くなるだけでなく、冷え性が解消できるというおまけ付きでもあります。
まずは瞑想の基本の体勢をとるところまでは同じです。前回や以前の項を参照ください。
ある程度瞑想状態になった後(変性意識状態になった後)、自分の手首から先の手に意識を向けます。そしてその手の温度をあげる意識を持ちます。
この時、目標温度を設定する方法があります。手の温度を1度あげる・・・などです。
また最初はイメージの力を使ってもOKです。私は暖かいお湯に手首から先を入れる意識で臨場感を生成する方法を用いていました。
何度も繰り返すうちに温度を上げる意識をするだけで本当に暖かくなります。最初は暖かく感じる・・・程度ですが、最終的には本当に温度が高くなります。温度計で計測してもその変化が確認できます。
次に、くるぶしから先の足で同じことを行います。
できれば手の温度はキープしたまま足の温度をあげていきます。同時多点の意識の集中が可能になる訓練でもあります。ヒーラーにとってとても重要な集中の種類です。
ただし初学のうちは難しいと感じる方が多いようです。その方は手の次は足というふうに順番に温め流意識で行って下さい。具体的には、
1手の温度を上げる、2足の温度をあげる、3手と足の温度を同時に上げる
といったプロセスでやってみて下さい。
この体温瞑想も数分から30分程度でOKです。
体温瞑想補足
これは、意識 → 内部表現書き換え → 物理変更 をしていることにほかなりません。
中国気功などでは上記の内部表現の書き換えの部分の解釈を、気の作用によるものとしているわけです。自分の物理(熱)を変更できるのであれば、これを内部表現の書き換えの一つの証拠として、自分の中で自信に繋がっていくかもしれません。(IKTM流では内部表現の書き換えの定義はしないですが)
マントラ瞑想
これは誰でもできる瞑想です。
瞑想時に心の中でマントラ(真言)を唱え続ける瞑想です。自身で唱えるマントラに集中するものです。
唱えた言葉の響きを全身に広げるイメージです。そのマントは通常のスピードで唱えます。(変に早くとかゆっくではないという意味)
瞑想に使用するマントラは何でもよいです。マントラ=真言ということで、密教のマントラが必要と思われる方もいるかもしれませんが、実はなんでもかまいません。
ただしネガティブな内容は避けるべきです。変性意識状態でネガティブな言葉を刷り込むと非常によくない状態になることが予測されます。
一般的にはポジティブで自分が好きな言葉や、アファメーションの内容で良いかと思います。
IKTM流では神様の名前を使用するが多いですね。例えば、”あまてらすすめおおみかみ”や”こくそくにとこだちおおかみ”、”すくなびこなおおかみ”などです。(これは非常に宗教的なのでおすすめはしませんが)
隣の人と間隔を開ける必要がある
最後に瞑想を行う上でのあまり言及されない注意点を紹介します。
隣の人と間隔を開ける必要があるということです。
一人で行う場合や、短時間の浅い変性意識状態でのものはあまり気にする必要はないです。ただし何人かで深い瞑想を行う場合は、隣の人と2m程度開けることができればより良いです。
これも多少スピリチュアルな表現になりますが、隣の方とオーラが重なり無意識下で邪魔になることがあるためです。
前回書いたように、瞑想の指導者や先達と一緒に行う場合は、その人のオーラに守られていると解釈することができます。言い換えるとそのセーフティーな場で初学者が瞑想ができるのと解釈できます。
本日はここまで
ある程度の集中が必要なヒーリングや気功には、これまで説明してきたような集中を持続させるような瞑想が非常に有効です。
自然音、メトロノームの音、自分の心音、体温など対象は様々ですが、その対象にフォーカスして集中を続けることがまず重要なのです。
そして瞑想を続け、変性意識が深くなることができるようになると、内部表現の書き換えも容易になっていきます。
もうちょっと瞑想
ほんじつはおめでとうございます。The Kerria S と申します。
今回はIKTM流(私が修行してきたヒーリングメソッド:I had received the Knowledge and Trained healing Method.)における瞑想について述べたいと思います。
ヒーリングの訓練を主目的に置いた瞑想です。以前に紹介したものの続きになります感じです。
今回はほんの少し高度な内容になります。(世の中瞑想ブームとも言える状況ですね。本格的なヨガや自己啓発的な文脈での瞑想は他に素晴らしい方々がいらっしゃいますので、そちらに譲るとします。)
とは言え、初心者の方もトライできる内容かと思いますので、興味のある方は是非やってみて下さい。
心臓瞑想
IKTM流の瞑想はある程度の意識の集中を伴う瞑想です。無になったり、頭を空っぽにすることはありません。
この”心臓瞑想”では、自分の”心臓の音”に耳を傾ける瞑想です。
瞑想の体勢は基本的な瞑想と同じです。
少しおさらいするとIKTM流の瞑想の体勢とは、リラックスした状態で、背筋を伸ばして座り(または立って)、目は閉じるか半眼(薄目を開ける程度)、手はリラックス状態をキープすればなんでも良い・・・となります。
この状態で、自分の心臓の音を聞くように自分自身を”しむけ”ます。心臓の音は実際にはなかなか聞こえません。そこを聞く意識にしていくのです。
すると、心臓または体のどこかの脈が動く音が聞こえる感じがしてきます。この時聞いた(または感じた)音が、本当の心臓の音である必要はありません。なんとなく聞こえる状態でOKです。この聞こえているような気がする、実際の心臓の音とは異なるものは”疑心音”と言われます。
どうしても心臓の音を感じることができない方は、自分の心臓に手を当ててたり、脈をとったりしてみて拍動を感じてみて下さい。集中を続けると、”疑心音”または本当の心臓が動く音がが聞こえてくるはずです。
この心臓の音に集中をしていきます。
体はリラックスさせます。聞こえない音を一生懸命聞くがあまり、体に力が入らないようにするのがポイントです。
心臓瞑想を行う時間に特に決まりはありませんが、数分から30分程度で十分です。
心臓瞑想補足
心臓の音を深く聞いてい行くと、心臓の動きをコントロールできるようになるといわれています。実際には心拍数を減らす方向にコントローすることが多いようです。
心臓の脈拍数を減らすことにより、心身がリラックス状態に近づいていくはずです。
古代インドの考え方では、人間が一生で心臓が脈動できる回数が決まっており、心拍数を下げるということは、長寿にもつながるときいたことがあります。(確か高藤聡一郎氏の著書で読んだ記憶あり)
私はこの作業を、健康診断の血圧測定の前に行ったりします。まぁ気休めですけどね。
自然音CDの注意点
以前に説明した”自然瞑想”は自然の中でその自然の音に集中するものでした。川のせせらぎ、鳥の囀り、波の音などなど。そして都会に住んでいる方は自然音のCDで代用しましょうと紹介いたしました。
実はこのときの環境音CDは自分で録音したものが望ましいのです。
ちょっとスピリチュアルな内容になりますが、売っているCDにはそれに携わった人の思いがこもっていることがあります。
ですので無意識の部分において瞑想の邪魔になることがあります。
そのため自分で録音するのがベストであるといえます。もちろんCDである必要はなく、スマホ録音でも構いません。
もし、どこかで自然に触れる機会がありましたら、是非瞑想用に録音をしてみてください。ある程度の長さがあることが望ましいですが、短い時間でも繰り返し再生で代用もできます。また完璧を求めてもなかなかできないので、気軽に録音してみて下さい。
指導者が必要な場合もある
本ブログで紹介する程度の瞑想であれば独習が可能ですが、もっと本格的な瞑想に関しては指導者が必要です。すくなとも瞑想に熟達した先輩と一緒に行う必要があるでしょう。
その先生・先輩と場を共有することが大事です。無意識レベルでの導き、オーラの共有、同調による気づきなどと説明されることが多いようです。
瞑想が深くなりすぎて制御不能になると、人格の変性、精神へのダメージなどが起きてしまう場合があります。
いわゆる”魔境”と呼ばれる状態ですね。そのようなことにならないためにも、指導者が必要ですよ、ということです。
本稿の最後に
瞑想についはもう少し紹介したい内容がありますので、次回も引き続き瞑想のことを述べていきたいと思います。
気功は何歳から始めて良いか
ほんじつはおめでとうございます。The Kerria Sと申します。
今回は気功を含めたヒーリングの類を習い始める年齢について、私の意見を述べてみたいと思います。
子供の頃からやった方がいいのか? それとも成人してからの方が良いのか? ですね。
ここで言う気功とは他人に施術を行うことを前提としたものを言うこととします。(健康体操としてだけの気功や武術のための気功ではないと言うこと)
そしてここで言うヒーリングとは、目に見えない気やエネルギー(?)などの科学で直接物理的な計測が不可能な物をメインの原動力として用いるものを指すこととします。(ですのでアロマセラピーやオイルマッサージはこれに当てはまりません。)
ちょっと補足:”気”は間接的に脳波や身体の変化で計測されたり、熱・電磁波・生体フォトンなどでその断片が計測されたりしますが、なぜ効果があるのか?それらの計測からは科学的な解明はできていないのが現状と私は認識しております。
科学的な思考の成長を妨げてはいけない
気功は臨場感が大事です。全てと言っても過言ではありません。よって心が素直で柔らかい時(十歳未満など)に気功を学び始めれば、より良いと言うことでしょうか?
私の意見としてはNoとなります。
確かに年齢が低い方が臨場感を容易に得られるかも知れません。しかし、現実物理の制約と自由な臨場感を繋げるためには、知識を身につける必要があります。
その知識を身につけることが難しい年齢で気功を行ってしまうと、重要な知識がない状態で臨場感を生成してしまいます。科学的な思考がない状態で、想像と空想で臨場感を作りに行ってしまいます。
これは科学的な思考をせずに、直感を頼る傾向を作り出すことになります。
また、現実と妄想を区別することができない”イタイ子供”になりかねません。
お金がかかる
気功やヒーリングを習得するのには、お金がかかります。中には格安や無料で行う指導者の方もいますが、基本は有料です。自身への投資が必要なのです。
若年の場合はそのお金は親や大人から出してもらうことになるでしょう。
しかし私は気功やヒーリングに関しては自分でお金を払うことが習う条件だと考えています。自分で稼いだお金を自分の責任において活用すべきです。
正直に言うと気功やヒーリングはまだまだ世間一般には認知されていません。徐々に広がっているとは思いますが、アンチは大量にいますし、将来的に急激に一般化するとも思ません。(気の作用が完全に科学的に解明され、再現性が取れるようになれば別ですが、まぁしばらくは無理でしょう。)
ですので、どうしても曖昧さが残る気功やヒーリングを身につけるには、その人のお金でその人の責任で行う必要があるのです。
もし保護者の方で、自分の子供に気功を習わせたい方がおられたら、前記した理由(科学的思考を妨げない)も含めて、他の技術を学ばせてあげて下さいと言うでしょう。
本来経験すべき経験をしない可能性
効果のない気功やヒーリングであれば問題ないのですが、幸運にも効果のある気の技術に巡り合ったしまった場合、本来子供の時に経験して自分のものにすべき経験を、気功の技術でショートカットしてしまう場合があります。
これはその子供の大人になるために必要な経験を奪うことになります。
人間関係の改善、自己の感情の管理など、子供や思春期の時に誰もが通り悩み自分なりに解決をしていくしかない内容を、気功技術で解決してしまうわけです。
ただし病気治療の一環として、現代医学に追加する形で健康に限定して取り組むのでしたら良いかもしれません。(あくまでも現代医学が主です。)
私の考える結論
社会常識が身につき(定義は曖昧ですが、その時代の社会に適合できる所作という意味)、科学的思考の基礎ができて、知識の吸収ができる年齢からが、気功の習いどきと考えます。個人差もあるのでしょうが、18歳ぐらいからでしょう。
私自身の考えです。異論はあるでしょうしそれを否定するものではありません。
北斗の拳の思い出
ほんじつはおめでとうございます。The Kerria Sと申します。
今回は完全に雑談の回です。気功でもヒーリングでもスピリチュアルでもありません。
ただし気の世界については多少とも関係があるかも(?)しれません。
まぁ昔話です。
北斗の拳
少年ジャンプ掲載をリアルタイムで呼んでおりました。毎週その北斗の拳がお目当でよんでいましたね。毎週楽しみでした。超劇画タッチのため、そのページがインクの分だけ重いという噂までたっておりました。(笑)
ちなみに北斗の拳とは、主人公のケンシロウというムキムキの男が、さらにムキムキの男たちの秘孔(ツボ)を突いて殺していく恐怖の指圧師のストーリーです。嘘です。
さて、
作中、ツボを軽く突いて倒す表現や、手を触れずに気(闘気)で相手を倒す表現が多々あり、中二病な私は”本当にあるかも知れない”と思って色々調べていました。
当時はインターネットでの検索は存在しないので、もっぱら大きな本屋を巡っては関連の本を漁る方法をとっていました。北斗の拳は中国拳法という設定なので、まずは中国拳法や格闘技周りからせめていきます。すると、”遠当て”や”眼力”の情報を見つけました。この時見つけた遠当てとは、離れた場所から琴の弦をならすといったものでした、また眼力とは、視線でカマキリ(虫)を殺す訓練をするものでした。
おお、どうやら目に見えない”気・闘気”なるものがあるのかも知れない、と思ったものです。
次に秘孔です。ツボです。東洋医学では体の機能を整えるために、針、灸、指圧などで用いるものです。おおよそ格闘技で人を破壊するものと結びつきませんでした。しかし中国拳法では人体にある急所がツボと重なっていることがあり、効率的に相手を倒す(殺す)ためにツボを狙うこともあるようだとわかりました。
似たもので”三年殺し”と呼ばれるツキを入れたのち3年後に絶命をさせる打撃まであることも知りました。(まぁこれは漫画家の梶原一騎氏の創作の可能性ありです。梶原一騎氏の空手バカ一代では肝臓と脾臓を打つのですが、私が調べていた時は忍術関連で腎臓への打撃である解説もありました。)
まさに、秘孔をついて殺す、です。
北斗の拳好きが講じて色々調べて回った結果、厨二病と絶妙にブレンドされて、”気”の世界に漠然とした憧れが形成されたのでした。
なのでこのブログは北斗の拳がなかったら書いていないのです。間違いなく。
そして気功へ
北斗の拳から色々と調べていって”気功”にたどり着きました。(高藤聡一郎氏の本の影響も大きいですが)
その中で印象的なのものが、今でも活動盛んな”西野流呼吸法”です。その道場では人がほとんど触れることなくバンバン吹っ飛ばされているます。またその様子の画像を提供していました。TVでも紹介放映されていましたね。まるで北斗剛掌波のようです。(分からない方はググってみよう)
(また、ちょっと違いますが新興宗教の教祖様が信者の方をバンバン吹っ飛ばすのも見たことがあります。笑いながら転げ回る信者さんがなかなかシュールでしたが。)
以前西野流呼吸法の師範の方と知り合った時に、自分も飛ばせないか?やってもらいました。その方いわく飛ばされる方も西野流呼吸法をある程度やっていないとだめとのことでしたが、そこをなんとかお願いしてやってもらいました。
結果、残念ながら吹っ飛ばされることはありませんでしたが、少し押されただけで重心が外されてよろけてしまう体験をしました。体勢が崩れるのに逆らえない感覚とでも言うのでしょうか。逆にこちらが押してもびくともしません。非常に不思議な感覚でした。
そして紆余曲折あってIKTM流(私が修行してきたヒーリングメソッド:I had received the Knowledge and Trained healing Method.)を長年修行することになっていったのでした。
声優は神谷明さんに限る
北斗の拳は何度もアニメ化されています。TVシリーズではその主人公のケンシロウの声を神谷明さんが担当していました。
私がIKTM流を始めてしばらくすると、神谷明さんに非常に近い方と会う機会がありました。私はその方が神谷明さんに近い方であることは知っていたのですが、知らんぷりを決め込んでいました。
しかしある日、どこで聞きつけたかその方が・・・
その方「あのぅ、神谷のファンでいらしてくださっているとお聞きしました・・・。」
私「ああ! まぁ、そのご迷惑になるかも知れないと思って黙ってました。」
その方「神谷が演じたキャラクターで好きなキャラクターはありますか?」
その方「わかりました。」
ということで、次にお会いした時に、神谷明さん直々のサインとケンシロウの絵が貼り付けてある色紙を頂いたのでした。
家宝としてとってあります。
私を気の世界へ誘ったキッカケが、自分の手元にあるのです。縁とは不思議なものです。
気功と人生のフィードバック制御とゴール設定
ほんじつはおめでとうございます。The Kerria Sと申します。
今回は、気功の進化と人生(ゴール)の進化の類似形について述べていきます。類似しているところは両方ともフィードバック制御で進化していくということです。
気功に大事なこと(耳にタコ含む)
気功は臨場感を持って行うことが大事です。(これまでこのブログで述べてきた通り!)
その臨場感を持つために必要なものは、気を感じる感受性と、様々な知識、それを処理できる頭の良さ(IQ)が求められます。(これらがないと気功ができないのではありません。気功を行いながら自分のものにしていくのです。)
そして臨場感を保つためには(臨場感空間に留まり続けるには)、いつも気を感じ続けコントロールしていくことが必要です。それは訓練を繰り返すことで気感が強化され、さらに知識の吸収とその理解により、臨場感がアップデートされていきます。臨場感の強化=気功の上達であります。(色々と他にも要素はありますが)
ここで重要なことが二つあります。一つは感じてコントロールということは、フィードバック制御であるということです。気功の臨場感を保ち続けるために、感覚と気の操作でフィードバック制御をしていることになります。そしてもう一つは、フィードバック制御で修正された臨場感は、フィードバック前の臨場感よりも進化しているということです。
(通常のフィードバック制御は、制御されたものが前と同じになるように働く為のものです。文系の人はには意味不明かも・・・スミマセン)
人生・生活の中のフィードバック
認知科学式気功では、気功を行う上で必ずゴールを設定することを指導されます。難しく考える必要はなく、まずは気功の目的でOKです。気功の目的で多いのは病気の治癒などでしょうか。
しかし本当は病気が治ることが目的=ゴールではないはずです。病気が治ってやりたいことがあるはずです。さらに何歳になってもなりたい自分、ありたい姿があるでしょう。
病気を治して長生きをして、そして何を望むのか? 本当に望んでいることなのか? (実はしっかりと答えられる人は少ないです)
もし仮にせよ人生のゴールを設定できたとしたら、ゴールも臨場感を持つことが大事だと言われています。気功をやっていなくてもです。
その人生の、言い換えると生活する上でのゴールを達成するには、ゴールに対する臨場感を保つことが必要となります。私たちはゴールの臨場感を持って、行動し、その結果の状況察知し、深めた知識を持って判断し、改善をしながらまた行動していくのです。そしてゴールの臨場感がアップデートされていきます。
これは気功の臨場感のプロセスと同じです。
気功上達のプロセスも、人生のゴール達成のプロセスも同じであることに気がつきます。フィードバックループをしながら進んでいくのです。フィードバックループの大きさが違うだけです。
気功をワークする意味
両方とも、感じて・察知して、知識とIQで制御する。同じです。
そして、体を緩めて気功的・日常的に感受性をあげ、知識を吸収し続け、IQを気功のワークなどで鍛えることができるのです。
おお! 気功の上達が人生のゴールの役に立つといえるのです!! (言い過ぎかな?)
いやさかえ
この進化のフィードバックループは弥栄(いやさか・いやさかえ)の考え方に似ていると思います。
弥栄、彌榮(いやさか、いやさかえ、やさかえ、やさか、やえい)とは、主に一層、栄えるという意味の単語。また、「万歳」に意味が近く、めでたい意味で使われることもある。
とあります。これを説明すると、この世は進化し続けていて、その進化は循環しながら行われていくということです。ですので同じような事柄が起こったとしてもそれは以前のものとは異なっています。この世はスパイラル状に進化していくといった考え方です。
仏教の無情感とは少し違いますかね? 方丈記の”ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。”とは似ている部分もありますが、趣旨が違います。
このスパイラルは、小さな自分だけの事柄から、大きな団体、国、地球、宇宙などこの世の全てに当てはまります。全ては相似形なのです。(この辺の考え方はいずれまた)
今回はここまで
臨場感とフィードバックについて述べてみました。最後の弥栄はブログ原稿を書いていていふと思ったので書き足してみました。
気功は頑張ってはダメ?
ほんじつはおめでとうございます。The Kerria Sと申します。
今回は気功を練習・修行・ワークする上で大切な考え方の一つを述たいと思います。
いきなりの結論ですが、それは ”頑張る必要はない” となります。
早く上達したい・結果を出したいのに”頑張らない”とはどういうことか? 考えていきたいと思います。
”頑張ろう”と思うということ
頑張ろう言葉の裏には、頑張らないとうまくいかない、頑張らなくてはいけない、という意味が隠れていると思いませんか?
頑張らなくても出来ることに対しては、”よし、頑張ってやろう!”とは思わないですよね? 好きなことに対しては、頑張ろうと思わないでひたすら没入して行えることでしょう。
(例えば、徹マン=夜通し麻雀が好きな人は頑張ってやっていませんよね?好きで好きでやりたくてやっているだけですよね。嬉々として辛い条件の麻雀をやっています。ところで今でも徹マンをする人なんているのだろうか・・・私の学生時代にはうじゃうじゃいましたが・・・)
ちょっと例がおじさん向けすぎるかな?(笑)
気功がHave toになっていないか?
やりたいこと、興味があることのはずの気功が、やなければいけないことになっていませんか?
趣味として、自分の健康維持のため、IQなど能力開発のためといった方は、やりたくてやっているはずです。気功のワークが見えない気を扱うこと自体が楽しい、健康を維持することで思うような生活を送りたい、IQをあげて人生を豊かにしていたい。などなど本来は、”やりたくてやっている”はずですよね?
それがいつしか、気功を上達するためにこんなことを思っていませんか?
”もっと気を感じなければならない”
”もっとワークする時間をひねり出さなければいけない”
そして
”もっと頑張らなくてはいけない”
いつの間にか”〜しなければならない”=Have to となっていませんか?
人によって気功を行う目的は様々です。特に重篤な病気の治癒が目的で気功を併用する方の場合は、好きで気功をやっているわけではないという方もいます。他に手がないから仕方なく気功を行なっているのだと。(実際に何人かお会いしたことがあります)
このような方も自身の又は自分のご家族への願望(長寿、健康、笑顔、遺産などなど)があり、その為のツールとして気功をしていることに変わりはありません。気功自体がつまらないものでも、本当の願望がある限り、そのツールを使用すること自体は ”Have to” ではないはずです。
”Want to"の中に気功があるといいなぁ
気功自体がやりたいことの対象である必要はありません。(私は気功自体を行うのが好きな部類の人ではありますが) しかし気功をやることで、自身のやりたいこと” Want to”に近づいて欲しいのです。
やりたいことをやるということは、楽しいはずです。
やりたいことをするということは、好きでやるということです。
そして先程述べた例のように、頑張る必要はないのです。
やりたければ、好きであれば、自然にガンガンやる状態を自身で作り出していきます。(無意識が働くともいえます。)
これを言い当てている諺が、”好きこそ物の上手なれ”であります。
(思えば私も気功を始めた時は狂ったようにやっていました。遠い目・・。新幹線を山手線のように乗り回して全国の道場に足を運び、研修料もなんとか工面して、土日や有給を駆使して行いました。体力的にもきついと感じてないし、辛くもなく、ひたすら楽しかったですね。今はちょっと違う楽しみ方をしていますが。でも気功のワークはいつでも楽しいと感じています。)
頑張ろうと思うと力が入る
ちょっと補足です。
頑張ろうと思うことによるマイナスの面の一つに、そう思うことで体が硬ってしまうことがあります。
”よし、やるぞ!”と気負いすぎてしまうのです。
体が硬ってリラックスしないと微弱で繊細な気の感覚をキャチできません。感知できないものはコントロールできないので、気のコントロール=情報のコントロール=気功がうまくいきません。
ですので体をリラックスさせるためにも、頑張ろうと思いすぎないことが大事になってきます。
楽しくなくなる理由
もう一つ補足。
さまざまな理由で気功を行うこと自体が楽しくなくなる場合があります。
その原因としては、”気を感じられない”、”気功の効果を感じられない” ということに尽きるのではないでしょうか?
ですので特に初心者のうちは、日々の気功のワークで細かな気づきを得て、そして気功の先達たちから自身も施術されて効果を実感することが大事でしょう。
そして、気は感じる、効果も感じる、でも気功はもういいや、という方もいるのではないでしょうか?
これは自分のゴール・目的が定まっていないからだと思います。(ほぼ断定して良いはず)
気功を使って何をしたいのか? もしかしたらそのゴールに向かうには気功は必要がないのか?
一度自身のお棚卸しをしてみるのもいいかもしれませんね。そしてまた必要になったら、やりたくなったら気功をまた始めれば良いと思います。